身の回りの複雑系

アサリの貝殻模様

アサリの貝殻模様を観察してみよう

 春から夏にかけて、遠浅の砂浜は潮干狩りで賑わいます。たくさん採れるのは(実は養殖しているからですが)、アサリ(浅蜊)です。アサリをたくさん採ったら、一休みして、貝殻を見てみましょう。同じ場所で採れたのに、貝殻模様が千差万別なことに気がつくでしょう。

 アサリは、みそ汁、酒蒸し、しぐれ煮、チャウダー、ボンゴーレなど、いろいろな食べ方ができるおいしい貝ですが、どこの魚屋さんにもスーパーにも置いてあるような、ごくありふれた貝です。潮干狩りに行けないときには、お店から、むき身ではなく、殻付きのアサリを買ってきましょう。そして貝殻模様を見てみましょう。どれ一つとして同じ模様はないはずです。

 殻付きアサリを調理した後なら、貝殻を広げて同じ貝の裏表を見比べてみましょう。やはり模様が違っているはずです。貝殻をきれいに掃除してから、似ているパターンに分けてみるのも興味深いですね。環境の違いで、模様のパターンに地域差ができるとも言われています。

 ちなみに、ハマグリやホンビノスガイ(シロハマグリ)、バカガイ、アカガイなどでは貝殻模様の多様性はあまりはっきりしません。安価なアサリが観察に適していて良かったですね。ホンビノスガイも比較的安価で、個人的にはハマグリより味が濃いように感じるので、好物です。(アメリカ・ボストン界隈では、この貝を生で食べます。小粒はリトルネック、中粒はチェリーストーンと呼ばれています。大粒は身が硬いので、細かく切って、クラムチャウダーに使います。)


 


 

 では、なぜアサリにはこのようにさまざまな貝殻模様ができるのでしょうか。アサリの貝殻は、成長とともに、少しずつ外側に向かって大きくなっていきます。その仕組みは、貝殻の内側に張り付いている薄い膜(ヒモ、学術的には外套膜と言います)の縁から貝殻成分と色素成分が分泌されているのです。

 この成長過程にともなう貝殻の拡大がさまざまな模様を生み出すのですが、その仕組みはまだ解明されていないようです。 ⇒「アサリの貝殻は、なぜさまざまな模様になるの?」を参照)。

しかしモデルがないわけではありません。貝の成長によって貝殻模様がさまざまになっていく様子を再現したものが1次元セルオートマトンです。 (⇒セルオートマトンモデルを参照)。

 ところで、最も基本的な1次元セルオートマトンのことを、エレメンタリー・セルオートマトン(Elementary Cellular Automaton: ECA)と呼びます。 (⇒「エレメンタリー・セルオートマトン(ECA)ってどんなもの?」を参照)。

ECAは、全部で256種類のルールが各々特徴的な空間パターンを生み出します。J. L. Schiff著『セルオートマトン』(共立出版、2011年)の付録A(228−234ページ)に全パターンが掲載されています。手元のアサリを一つずつどのパターンに近いか調べてみると、どんな結果になるでしょうか。

アサリの貝殻は、なぜさまざまな模様になるの?

 アサリの貝殻模様はさまざまです。アサリの成長過程で、貝殻の内側の外套膜(内側にあるのに外套というのは変ですが)の縁から貝殻成分と色素成分が分泌されるため、貝殻が大きくなるに従ってさまざまなパターンが現れることが分かっています。 (⇒「アサリの貝殻模様を観察してみよう」を参照)。

 もっとも個々のアサリは、どのような模様を描くかという計画や意志は持っていないはずですから、殻を作り出す外套膜縁での色素成分の分泌の仕方が自然に(結果的に)貝殻模様を描くはずです。また、外套膜自体も全体のパターンを知るすべがありませんから、極々狭い部分が分泌する色素成分が周囲と相互作用しながら少しずつ変化する結果が貝殻模様に反映しているはずです。

 ひとりの生物学者がこうした仕組みに興味を覚えました。むずかしい内容なので読み飛ばしても構いませんが、「外套膜縁の色素形成部における何らかの生理化学的状態の出現消滅と隣接細胞へのその伝播によって作られる」という作業仮説を1952年に立てました。そして実験の結果、「斑紋形成(濃淡のパターンの生成)は、SH基(チオール基)の濃淡によりチロシナーゼ作用(黒色化・褐色化)に強弱がでることによる」という推論を導きました。この研究者は山川振作という人で、山川均・山川菊栄夫妻の息子さんです。

 

 この仮説は、実は反応拡散系と呼ばれている仕組みに対応しています。反応拡散系とは、物質の局所的な化学反応と物質の大局的な拡散を同時に結びつける見方です。残念ながら、アサリの貝殻模様のさまざまなパターンができる仕組み(外套膜縁で生じている実際の物質の反応と拡散を表す方程式系の確定)は、現在でも解明できていないようです。

 偶然同じ年の1952年に、生物の形態形成(たとえば体表面の模様)は反応拡散系で表せるのではないかという仮説を提唱した学者がいました。その人こそ、天才数学者アラン・チューリングです。 (⇒「エレメンタリーだよ、ワトソン君」を参照)。 彼は、化学的な仕組みによって自然に(自発的に)いろいろな空間的パターンができることを数学モデル(反応拡散方程式系)で示しました。

 純粋に抽象的な数学モデルだったので、当初は注目されませんでしたが、やがて実際に生物の体表面の模様が再現できることが報告されるようになりました。今では、チューリングの方程式から得られる空間的パターンは、チューリング・パターンと呼ばれています。 

 アサリの多様な貝殻模様と関連が深いのは、反応拡散系を1次元セルオートマトンでモデル化して、さまざまな貝の模様を再現できることです。J. L. Schiff著『セルオートマトン』(共立出版、2011年)の図5.10から5.16(154−155ページ)を眺めてみてください。 (⇒「エレメンタリー・セルオートマトンってどんなもの?」を参照)。 (⇒セルオートマトンモデルを参照)。


エレメンタリーだよ、ワトソン君(Elementary, my dear Watson)

 名探偵シャーロック・ホームズの有名なセリフです。もっとも原作には、この通りのセリフは見つからないそうです。ホームズの推理が当たって、すごいね(Excellent)と感嘆の声をあげるワトソン医師に、基本だよ(Elementary)とホームズが応えたのがおそらく出典でしょう。初歩的なことだよ、という訳もあるようです。凡人には「すごい」ことも天才には「初歩(基本)的」なようです。  

 たとえば、イギリスの天才数学者アラン・チューリングはチューリング機械と呼ばれる独創的な仕組みを考え出しました。チューリング機械とは、

◎ セル(情報が入る「独房」)が連なっているテープ
◎ 1セルごとに読み書きできるヘッド
◎ 読み取ったセルの状態とヘッド自体の状態によってヘッドはセルに書き込んだり左右に移動したりする

という機械です。これだけの簡単に仕組みで、さまざまな仕事(アルゴリズム)をこなすことができるそうで、コンピュータの数学的モデルになったと言われています。 (⇒「チューリング機械の仕組み」を参照)。

 この他にも彼は、暗号解読やチューリング・テスト(機械と人間を区別する方法)などで知られています。このテストは、彼自身はイミテーション・テストと呼んでいました。また、チューリング・パターン(物質の局所的化学反応と大局的拡散が生み出す空間的パターン)にも名前を残しています。 (⇒「アサリの貝殻は、なぜさまざまな模様になるの?」を参照)。

 1954年、チューリングは42歳になる直前に不幸な死を遂げます。彼の生涯を、第2次世界大戦中に敵国ドイツの暗号を解読しようとした仕事を中心に描いた映画が『イミテーション・ゲーム』(日本版タイトルも『イミテーション・ゲーム』、公開は2015年)です。タイトルにあるイミテーションは、チューリングの提唱したイミテーション・テストから採ったのでしょうか。

 この映画で、主人公チューリングを演じるのはベネディクト・カンバーバッチです。個性的な主人公を好演しています。カンバーバッチは、偶然にもBBCのテレビシリーズ『シャーロック』で今世紀のシャーロック・ホームズを演じています。カンバーバッチは天才役が似合っているのでしょうか。  

 なお、天才役ではありませんが、ジョン・ル・カレの名作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の映画化で、主人公スマイリーの片腕ピーター・ギラムをカンバーバッチが演じています。陰の主人公の二重スパイであるビル・ヘイドンを演じているのは、コリン・ファース(『英国王のスピーチ』で主役)です。日本では『裏切りのサーカス』というタイトルで公開されました(日本公開は2012年)。サーカスとは、英国諜報部の別名です。複雑系とは関係ないですが、複雑なストーリーです。


チューリング機械の仕組み

 チューリング機械の仕組みをなるべく基本に戻って調べてみましょう。「基本的」にせよ「初歩的」にせよ、どこまで基本あるいは初歩に戻ることができるでしょうか。  

 まず思いつくのは、「あるかないか」でしょう。「YesかNoか」、あるいは「真か偽」でも良いかも知れません。このようなさまざまな二分法を表現する便利な表現として、一方に1他方に0を割り当てることがよくあります。

 そこで、基本的なチューリング機械として、ヘッドの状態(1か0)とヘッドの読み取るセルの状態(1か0)により次の状態(ヘッドの状態の書き換え、セルの状態の書き換え、移動の仕方=右に1セル:+1か左に1セル:-1)を指定できます。たとえば

◎ (0,0)→(1,1,+1)
◎ (1,0)→(0,1,-1)
◎ (0,1)→(1,0,+1)
◎ (1,1)→(0,0,-1)

という規則にしてみましょう。ここで(1,0)→(0,1,-1)という表記は、「現在の状態が、<ヘッドは1、ヘッドがあるセルは0>なら、次の状態は<ヘッドは0、セルは1に変わって、ヘッドが左に1セル移動する>になる」ことを表しています。上のルールだと、ヘッドは左右に行ったり来たりするので、長いテープは不要です。

 もしヘッドとヘッドのあるセルの状態が(0,0)なら(左右のセルの状態も0とします)、このチューリング機械はどのように動くでしょうか?  

 図を描きながら順番に処理していくと比較的(慣れると)簡単ですよ。正解は、状態や移動の表現は少し違いますが、J.L.Schiff著『セルオートマトン』(共立出版、2011年)の図1.3(7ページ)と同じになります。では、この本の書名になっているセルオートマトンとは何でしょうか。チューリング機械と深い関係があります。 (⇒「エレメンタリー・セルオートマトン(ECA)ってどんなもの?」を参照)。


エレメンタリー・セルオートマトン(ECA)ってどんなもの?

 セルオートマトンとは、アラン・チューリングに勝るとも劣らない天才だったジョン・フォン・ノイマンによって提唱されたアイデアです。まず、要素部品の集合体でさまざまな機械を自動的に生み出す(自己複製さえも可能にする)機械として「オートマトン」の提案がありました。要素部品をセルと考えて、現在のそれ自身と周囲のセルの状態によって、その内部状態が変化していく仕組みとして提唱されたのが「セルオートマトン」です。チューリング機械と似ていますね。 (⇒「チューリング機械の仕組み」を参照)。 ちなみに、チューリング機械はコンピュータの数学的モデルになったと言われていますが、フォン・ノイマンはアメリカでのコンピュータ開発の中心人物です。

 セルオートマトンの基本は、あるセルとそのセルの周辺にあるセルの状態によって、そのセルの次の状態が決まるという仕組みです。セルが平面に敷き詰められたものは2次元セルオートマトンで、その代表がライフゲームです。 (⇒ライフゲームモデルを参照)。 そして、セルが線状に並んだものが1次元セルオートマトンです。

 さらにセルが0か1のどちらかの状態をとり、次の状態がどうなるかは自身と両隣のセルの状態だけから決まる1次元セルオートマトンが、エレメンタリー・セルオートマトン(Elementary Cellular Automaton: ECA)と呼ばれるようになりました。初歩的(エレメンタリー)なオートマトンでも、オートマトンの基本的(エレメンタリー)な特徴は備えているそうです。天才にはエレメンタリーでも凡才には難しい理屈です。

 ECAのルールは、
◎ 自身と両隣の3つのセルが0か1を取るので2の3乗=8通りの状態があり得る
◎ 各々の状態が次の自身の状態(0か1)を決めるので、全体として2の8乗=256通りある
256通りのルールの中には、とても複雑な全体像を作り出していくものもあるので、まさに複雑系の格好の例です。 (⇒セルオートマトンモデルを参照)。