身の回りの複雑系

囚人のジレンマ・社会的ジレンマ

囚人のジレンマ・社会的ジレンマって何?

 「囚人のジレンマ」はゲームの一種で、半世紀以上も昔に考案されたものですが、ここではオリジナルのストーリーを少し変えて説明します。(⇒オリジナルなストーリーについては<協力することは本当に良いことなの?>を参照)

 「囚人のジレンマ」ゲームは、二人のプレーヤーで行います。 二人は互いに相談できない状況に置かれています。このように互いに接触できないという状況設定が、プレーヤーを「囚われ人」つまり囚人と呼ぶ理由です。 プレーヤーは「相手と協力する」と「相手を裏切る」という2つの選択肢のどちらかを選択しますが、相手が何を選択しているかは知ることができません。 二人の選択の結果によって、自分の受け取る点数が決まります。自分が裏切り・相手が協力なら5点、二人とも協力なら3点、二人とも裏切りなら1点、自分が協力・相手が裏切りなら0点です。 高得点のプレーヤーが勝者なので、プレーヤーは高得点を得ようとします。


 

 

 どこがジレンマなのでしょうか。このゲームでは、相手が何を選択しているかは知り得ません。 しかし相手が協力の場合は自分は裏切った方が良い(3点よりも5点の方が良い)し、相手が裏切りの場合も自分は裏切った方が良い(0点よりも1点の方が良い)という状況です。 つまり、相手が何を選択しようと自分は裏切った方が良いことになります。このことは、両方のプレーヤーについて当てはまりますから、両者とも裏切ることになります。 そうすると両者とも1点ずつ受け取る結果になります。もし協力し合えば3点ずつもらえるのに、それより少ない1点しかもらえないということがジレンマと呼ばれる理由です。 「囚人のジレンマ」は上の説明のように、二人の間のゲームですが、同じ状況を三人以上のゲームで生じるようにすることは簡単です。 つまり、他の人たちが協力しようと裏切ろうと、自分は裏切った方が高い得点を得ることができるような状況でのゲームです。 そのとき、全員が高得点を得ようとして裏切れば、協力するよりも低い得点しか得られない結果になります。これを「社会的ジレンマ」と呼びます。

 ようするに、「囚人のジレンマ」・「社会的ジレンマ」とは以下のような状況です。

 ・互いに高得点を求めて行動しようとすると、互いに裏切ることになり、結果的に高得点を得られない
 ・互いに協力すれば高得点を得られるが、自分だけが裏切るともっと高得点を得られるので、裏切る誘惑にかられる
 ・自分だけではなく相手(他人)も同じように考えて、二人(全員)が裏切ると、結局、出発点である(1)の状態に戻る

 なぜこのジレンマ状況は注目されてきたのでしょうか?

まず、社会科学者や哲学者に人間性を考察する上での格好の材料となりました。(⇒ <「囚人のジレンマ」は人間の本質について考えさせる>を参照) また、現実の社会でも、このようなジレンマ状況が意外と(?)生じやすいことが分かってきました。 (⇒ <掃除当番をなぜサボる?>,<乱獲のせいでウナギは絶滅してしまうのか?>,<ドーピングはなぜなくならない?>を参照)


「囚人のジレンマ」は人間の本質について考えさせられる

 相手が何を選択したか知らない状況で「囚人のジレンマ」ゲームは始まりますが、相手が何を選択しようと自分は裏切った方が良いということなので、当然ながら、相手が何を選択したか分かったとしても裏切った方が得点は高くなります。(⇒ <「囚人のジレンマ」・「社会的ジレンマ」って何?>を参照)  ようするに、相手が協力したと分かっていても、自分は協力するのではなく、高得点を求めて裏切るという選択が「合理的」な行動というわけです。 逆に言えば、相手が協力の場合、自分も協力という互酬的(互恵的)な選択は「非合理的」な行動ということになります。

 このゲームが興味深いのは、自分の得点をなるべく高くしようとする「合理的」行動が、二人とも1点しかもらえない結果になることです。 「利己的に行動すると、見えざる神の手によって、社会的に良い結果になる」(このゲームでは二人とも3点もらえる)という自由主義的経済の理屈(利己的に振る舞うことが合理的なのだ)が通用しないのです。 もちろん利己主義(自分の得点をなるべく高くしようと行動すべきである)は良くないという道徳的な結論を引き出すのは簡単ですが、相手も利己主義ではなく道徳律にしたがって行動するという保証はありません。 さらには、相手が協力すると約束しても、実際には裏切るかも知れないという疑い(相手が合理的=利己的なら裏切るに違いないという推測)を捨てきれないのです。 どうすれば、二人とも互いに協力することが結果的に高得点につながる(ただし相手より高得点にはならない、自分の最高得点でもない)ことを学習し、裏切る誘惑に負けない自制心を二人とも獲得できるのでしょうか。(⇒ <「しっぺ返し」は本当に社会を良くするの?>, <協力することは本当に良いことなの?>を参照)

 このように、近視眼的な利己主義を乗りこえて(相互裏切りの「愚」を反省して)、互いに協力するにはどうしたらよいかという問題(つまりジレンマの解消)は、社会科学者にとって挑戦しがいのある大問題になりました。 そのような問題のひとつが、「囚人のジレンマ」ゲームで高得点を実現するにはどのように選択したら良いかというものです。 自分が5点を求めて裏切れば、やがて相手も裏切って「元の木阿弥」(1点)になりますから、結局、相手の協力を引き出して自分も協力するというほどほどの結果(3点)を実現するにはどうしたらよいかという問題になります。 つまり、人間の利己的性格(高得点を望む)は認めつつも、具体的にはどうすれば良いのかを探る研究がいろいろとされるようになりました。 とくに有名なものがアクセルロッドによる「繰り返し囚人のジレンマ」ゲームでの選手権大会です。 (⇒ <囚人のジレンマ選手権モデル>を参照)



「しっぺ返し」は本当に社会を良くするの?

 「繰り返し囚人のジレンマ」ゲームでは、「しっぺ返し」(目には目を)という行動様式が高得点をもたらすという結果になりました。これは、どの程度一般化できるのでしょうか。 結論を言えば、「状況次第である」、「相手の出方次第である」が答えですが、「しっぺ返し」が囚人のジレンマ的状況でプレーヤーに高得点をもたらし得ることは驚きをもって受け止められました。

 そもそも「しっぺ返し」とは、まず初回で自分は協力するが、それ以降は相手の選択を自分も繰り返す、というものです。これはきわめて単純な選択方法です。 協力し続ける、裏切り続ける、協力するか裏切るかをランダムに選択する、というような相手の選択とは無関係に自分の選択をする行動様式と同じくらい単純です。この単純さが驚きの一因でした。


 また、「しっぺ返し」は、相手の選択に対する「条件反射的」行動です。言い換えると、この行動様式は、なるべく高い点数を得ようと相手の出方や自分の対応方法を「合理的」に考えたものでもないし、過去の経験・記憶(自分の選択や相手の選択)に基づく難しい計算(理性の典型!)でもありません。 ゲームという知的な場面で、イヌにもできる条件反射(「パブロフの犬」)にしたがうプレーヤーがゲームの勝者になったというのも驚きの一因でした。 (蛇足:「合理的な」という仮定を必要としないので、「理性」を持ち合わせていないとされる動物(正確には人間以外の動物)の行動の進化を分析する「進化ゲーム」という分野が生まれました。

 「しっぺ返し」という行動様式は、さまざまな行動様式をとる相手とゲームをしても、そこそこの得点をもたらす結果になります。 たとえば、裏切り続ける相手に対しては、自分も裏切ることになるので、初回には0点ですが、その後は1点を獲得します。 したがって、「しっぺ返し」は相互協力を導くというわけではありません。その意味で、社会を良くする(互いに協力する)かどうかは、相手次第ということになります。  ここで発想を変えてみましょう。「しっぺ返し」ではなく、いつも協力するという行動様式ならば本当に社会を良くするのでしょうか。 実は、そういうことは必ずしも言えません。「囚人のジレンマ」・「社会的ジレンマ」の奥が深いところです。(⇒ <協力することは本当に良いことなの?>, <「囚人のジレンマ」は人間の本質について考えさせる>を参照)


協力することは本当に良いことなの?

 「囚人のジレンマ」・「社会的ジレンマ」と呼ばれている状況は、皆が互いに協力した方が良いのに(高得点を得られるのに)、結局互いに裏切ってしまうような帰結になるものです。当事者たち(ゲームのプレーヤー)にとっては相互協力が望ましいかもしれませんが、もっと広い見地からは好ましくない場合もあります。たとえば、贈収賄。贈賄側も収賄側も協力して、明るみに出ないようにします。 自覚する被害者が現れにくい(「ずる」されて被害を受けたことが分かりにくい)ので、贈収賄は地方検察庁の特捜部が摘発することになります。 ジレンマ状況では相互協力が難しいことが強調されてきましたが、それを逆手にとって、囚人のジレンマ・社会的ジレンマ状況を巧みに利用している制度があります。たとえば共犯容疑者に対する自白誘導です。 文字通り「囚人のジレンマ」ですね(実は、このストーリーが「囚人のジレンマ」状況を説明するのに初めて使われたので、この状況を「囚人のジレンマ」と呼ぶようになりました)。 日本にもいよいよ司法取引が導入されるので、早く(先に)自白した方が身のため(減刑してもらえる)というインセンティブが強くなるでしょうね。

 また、カルテルや入札談合の事実を通報すれば「早い者勝ち」で課徴金減免になる(リーニエンシー)という独占禁止法の規定も、社会的ジレンマを利用した制度でしょう。つまり、「裏切りの勧め」です。要するに、「悪い奴らの協力は許さない」という発想ですね。 まだ他にも「いつでも協力する」ことの問題点が指摘されています。ここに、「囚人のジレンマ」状況で、いつも協力することを選択するプレーヤーがいます。裏切られても、裏切り返すことはありません。 一見すると、心優しいプレーヤーです。「汝の右ほほを打つ者あらば左ほほも向けよ」という教訓を実践している人です。しかし、こちらが協力しているのに、裏切ることを選択するような相手に対して、反省材料を提供するでしょうか。この教訓から、裏切ってはいけないという教訓を導くことは困難です。 「囚人のジレンマ」を研究していた一人の学者は、「聖人は普通の人を悪人にしてしまう」という格言を残しています。つまり、いつでも協力する人は、相手(他人)に裏切りを選択させてしまう、という意味ですね。 また、協力しかしない人は、聖人(Saint)なんかではなく、お人好し・カモ(Sucker)だと言う学者もいます。協力し続ける行動様式は、相手に裏切るという誘惑をもたらすという意味です。 裏切る相手に対しては、こちらも裏切って、相手に協力する方が望ましいと悟らせる機会を与えた方が良いということですね。(⇒ <「しっぺ返し」は本当に社会を良くするの?>を参照)

 

掃除当番をなぜサボる?

 放課後の学校では掃除当番が回ってきます。クラスメートが交代で、教室をきれいにするのが目的です。まじめに掃除する人もいますが、サボる人もいます。サボる人は「ずる」をしているのですが、どうしてそんなことをするのでしょうか?あなたはどっちのタイプですか?

 実は、掃除当番という制度には、「ずる」をしてサボりたいと思わせてしまう欠点があるのです。当番に当たっている人が全員まじめに掃除すれば、教室は早くきれいになります。 ところが、他の人が掃除しているとき、あなたがサボってもそんなに影響はありません。サボっている人が多いのに、自分だけがまじめに掃除するのは「骨折り損」と思いませんか。結局、他の人がサボると自分もサボって、教室は汚いまま。


 

 

 では、どうすれば、みんながサボらないで、教室をきれいにできるでしょうか? 「ずる」をした人(サボった人)を先生に言いつけて、罰を与えてもらうという手があります。でも、そんなことをしたら「告げ口」をした(ちくった)と悪口を言われてしまうかも知れません。他にどんな方法があるか考えてみてください。 この問題は意外に難しく、こんな問題があると指摘されてから半世紀以上になるのですが、今日でもいろいろな「解決策」が提案され続けています。 この問題は「囚人のジレンマ」とか「社会的ジレンマ」と呼ばれています。(⇒<「囚人のジレンマ」・「社会的ジレンマ」って何?>を参照)


乱獲のせいでウナギは絶滅してしまうのか?

 近年、ウナギの不漁が報道されています。私たちが食べているウナギのほとんどが養殖ウナギですが、完全養殖(産卵・受精から養殖場で管理=人工ふ化)ではなく、海で獲ってきた稚魚(シラス)を養殖場で育てるのです。 ウナギの生活史はようやく解明されつつある段階ですが、稚魚の乱獲が不漁の大きな原因だと言われています。 乱獲しないためには、漁獲量を制限することしかありませんが、自分が自粛しても、他の漁師が獲ってしまえば結局乱獲になってしまいます。しかも自分は減収なのに、沢山獲った漁師は増収になります。 そのような「抜け駆け」を防止するには、漁師ごとに漁獲量を割り当てたら良いはずです。

 ところが、自分が割当量を守っているのに、他の漁師は守らなければ、自分は減収なのに、合意を守らない漁師は増収です。それなら、割り当てを守るのは「バカ正直」に思えてしまいます。 他の漁師が割り当てを守っているならば、自分だけが「抜け駆け」をしても乱獲にならず、自分は増収です。そう思って、みんなが「抜け駆け」すれば、結局乱獲になってしまいます。乱獲の防止は難しいのです。

 実際、こんな問題があると指摘されてから半世紀以上になるのですが、なかなか良い案が見つからず、今日でもいろいろな「解決策」が提案され続けています。 この問題は「囚人のジレンマ」とか「社会的ジレンマ」と呼ばれています。(⇒ <「囚人のジレンマ」・「社会的ジレンマ」って何?>を参照)


ドーピングはなぜなくならないのか?

 2016年のリオデジャネイロ夏季オリンピックの際に、ロシアが国家ぐるみでアスリートたちにドーピングをさせていたという衝撃的な報道がありました。日本のスポーツ界でも、散発的にドーピングが問題になっています。 ドーピングに使用される薬剤にはさまざまな副作用があることが分かっていますが、使用者本人の健康を害すにせよ、他人に迷惑をかけるわけではありません。 ドーピングが問題になるのは、やはり、スポーツの公平性やフェアプレーの精神に反する行為だからでしょう。しかし、なぜドーピングはなくならないのでしょうか?


 

 

 だれもドーピングしなければ、公平な競争の結果、勝負がつきます。そのようなときに自分だけ「ずる」をすれば、相手よりも優位に立って勝てる可能性が高くなります。 しかし自分だけでなく他人もドーピングするようになれば、「元の木阿弥」どころか勝負の結果に対する信頼性も損なってしまいます。アスリートどうしの自粛合意は無理なのでしょうか。

 このような問題は「囚人のジレンマ」とか「社会的ジレンマ」と呼ばれています(⇒

<「囚人のジレンマ」・「社会的ジレンマ」って何?>

を参照)。ドーピングのような「ずる」を防ぐ方法についてはいろいろと提案されてきました。 ドーピング対策は、残念なことに、アスリートについての性悪説に基づいて、検査組織が目を光らせています。世界反ドーピング機構(WADA)は1999年に設立されました。日本にも日本反ドーピング機構(JADA)があります。